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書体製作中。

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和太鼓奏者、鼓次郎さんのロゴマーク、名刺、ステッカーを作りました。

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「鼓」ロゴマークのためのエスキース

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年末のイベントのために作った2つのロゴ。

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年末に参加するイベントのフライヤーをデザインしました。

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人生2個目の篆刻。これを明後日先生に直してもらう。
印を捺すのが、思ったのよりはるかに難しかった。正式なやり方でも2回重ねて捺すのだけれど、かすれる、ずれる、にじむ。。。というわけで、捺印だけで1時間かかりました。

人生2個目の篆刻。これを明後日先生に直してもらう。
印を捺すのが、思ったのよりはるかに難しかった。正式なやり方でも2回重ねて捺すのだけれど、かすれる、ずれる、にじむ。。。というわけで、捺印だけで1時間かかりました。

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坂口恭平「新政府展」

@ ワタリウム美術館

坂口恭平は建てない建築家である。

路上生活者の家の調査や、0円ハウス(稼働の生活空間)の建設、貯水タンクへ住む試みなどを通して、住居とはなにかを考え続けている。

展示内容は、多摩川や隅田川、山谷地区などのホームレスの生活を記録したスケッチ、細かい線で上下左右に広がるスラムのような住居群を描いたドローイングなど。

今、ホームレスという言葉を書くことにとても抵抗があった。なぜなら、坂口恭平の出会ったホームレスはダンボールやブルーシートを使って立派な生活空間(仮住まいというのにも抵抗がある)を作り、お金を稼いで生活しているからだ。(せめて、路上生活者という言葉を使おうと思う。)印象的だったのは、ある路上生活者が、仲間のために食事を作ることを生業にし、仲間の好き嫌いを壁に書きとめている様子だった。一人ひとりの好きなもの、嫌いなものを覚えて一人ひとりのために食事を作り、家まで運ぶ、というのは食の仕事の理想的な姿だと思ったし、それを私が今まで「汚い」「無気力」と思っていたホームレスが実際にやっていることが衝撃的だった。清潔・おもてなし・プラスα・接客、そういうサービスがなんだか形だけのもののように思えてしまった。生活はするものだし、丁寧に生活することは自然と誰かのために何かをすることにつながるのだ。

展示を見ている間、なにか自分の心の汚さに気付かされるような気持ちがずっとしていた。多摩川でいくつもの小屋を建て、畑で作物を育てながら動物と暮らしている元研究者の記録を見た時には、「ああ、こういう人は頭が良すぎてどこかおかしくなってしまっているんだろうな」と最初に思った自分がとても嫌だった。自分は正常で、汚い生活はしたくなくて、寒いのも暑いのも嫌で、「ホームレス」と言われたくない。けれど、汚いと思っていること、寒い、暑い、不快だと思われることは本当にそうなのだろうか。実はそうじゃないのかもしれない。それに気づいてしまうことを、そうではない人を異常だとすることによって避けているような気がした。

私は、雨水や川の水は汚いと思っている。飲むなら水道の水がいい。けれど、多摩川で生活している人は、「東京の雨は2時間たてばきれいになる」という。生活の創意工夫ぶりを見ていると、その言葉が妄想のようには思えず、だとすると雨水を汚いと思うのは私の「イメージ」「感覚」でしかなくて、そのおぼつかなさが不安になる。雨どいに針金で茶こしを縛ってゴミを取り除く様子は「汚い」けれど感動した。この「汚い」というのも私の固定観念だ。とすれば、雨どいについた茶こしに、私は本当は純粋に感動していたのだ。

整然と並んだタイポグラフィや、人の頭脳を刺激するレトリックは本当に美しいんだろうか。路上生活者はたくましく、生活と身体が一体になっていて、雑然としているがすべてに意味がある。すべてに意味があるということは、無駄がないということだ。無駄がない、引くものがないというのはデザイナーが目指すところではないか?つまり、路上生活者の家は、その人に対する最高のデザインなのではないだろうか。それに対する「汚い」「不潔」という印象は、私個人に刷り込まれた固定観念でしかない。私は、捨てられた「ゴミ」を汚いと感じる。でもそれは、ゴミが汚いんだろうか。ゴミという言葉が汚いんだろうか。雨水を飲みたくないと感じる。それは、雨水を見ているのではなく、雨水が汚れた空気の中を通って落ちてくるという昔見た図を見ているからなのではないだろうか。

どんどん、価値観がこわれていくような気がした。けれど、私は結局いつもの生活、雨水を飲まず、整った家具とがたつきのないタイポグラフィを「美しい」と言い、地面の近くにあるだけで何か汚れがついてしまうようなイメージを持つ生活に戻っていくのだろう。それを棄てるのには勇気がいる。何かをしなければならない。けれど、今ある心地よさを捨てたくない。突然新しい価値観に従うエネルギーを持っていない。路上生活者も人間なのはわかるけれど、知らない人に声をかけたくないし、怖いし、やっぱり路上で生活できるというだけで埋めがたいギャップを感じる。そのギャップは、おかしい人、非常識な人、汚い人、というイメージでできている。それはそのまま、私の心の醜さで固められた溝でもある。

人は誰しも醜さを持っている、というのはあちこちで言われることだ。私はこの心の醜さに開き直って、「美」という固定観念を追い求めていくのだろうか。

それでいいんだろうか。

今すぐに私を固めている固定観念を捨てることはできないけれど、見て見ぬふりをしたくない。開き直りたくない。私の固定観念は矛盾している。美しいものを汚いと言っている。自分の価値観のものさしに、どうにか、違う幅をもった目盛りを刻みつけておきたい。私の生活の中で、昨日見たものは忘れられてしまいそうだ。でも、絶対忘れちゃいけない。私の感じる美しさ、汚さは固定観念である。この気付きを忘れてはいけない。

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今年の年賀状
金文書体をもとに、「東風解冰」 です
今年はもう少しココを更新したいです。どうぞよろしくお願いします。 

今年の年賀状

金文書体をもとに、「東風解冰」 です

今年はもう少しココを更新したいです。
どうぞよろしくお願いします。 

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(WeHeartItのテスト)昔々につくったやつ

(WeHeartItのテスト)昔々につくったやつ

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今作っている書体の途中経過です。
中国南部において春秋戦国時代に使われた金文書体を参考にしています。

今作っている書体の途中経過です。

中国南部において春秋戦国時代に使われた金文書体を参考にしています。